呉越興亡 その4
呉王闔閭(こうりょ)は翌年春まで楚の首都に留まっていた。 留守をついて越が呉に侵入した。越は王允常(いんじょう)の時代からたえず呉と争っていた。 ちょうどこの頃秦が楚に援軍を送り。呉を破った。呉でも弟が呉王を称したので、闔閭(こうりょ)は兵を返して弟を追い、国内を整備した。
前496年、闔閭(こうりょ)の十九年、呉は越を攻撃した。允常の子の越王勾践(こうせん)は、奇抜な策を用いた。死刑人を三列横隊に並べ、次々に呉軍の前で首をはねさせたのだ。呉軍が呆気にとられているうちに、越軍が背後にまわって包囲し、さんざんに破った。呉王闔閭(こうりょ)はこのときに受けた傷がもとで死んだ。
臨終で太子夫差(ふさ)にいった。「勾践(こうせん)がお前の父を殺したのを忘れるな」 このとき夫差は、三年のうちに仇討ちをしますと誓った。「史記の人間学」
