第二節 <三皇3・黄帝軒轅(こうていけんえん)氏> その一

黄帝、公孫(こうそん)が姓であった。また、姫(き)が姓であったともいう。名を軒轅(けんえん)といい、有熊(ゆうゆう)国の君主、少典の子であった。母親が、大きな電光が北斗の(第一星である)天枢星を取り囲む(ように走る)のを見て、それに感応して黄帝を生んだ。(当時)炎帝の世も末となり、諸侯が互いに侵略しあっていた。 

軒轅は、そこで軍事の習得につとめ、(諸侯の)恭順しないものを征伐した。(その結果)諸侯は皆(黄帝に)帰順することになった。(さらに)炎帝とも阪泉(はんせん)の野で戦い、勝利した。(ところが)蚩尤(しゆうという者)が反乱を起こした。その人には胴鉄の(ごとく堅固な)額があり、大霧をわき起こすことができた。軒轅は、(そこで)指南車①を製作して(大霧に迷わされることなく)蚩尤と涿鹿(たくろく)の野で戦い、(勝って)彼を捕虜とした。(こうして)ついに炎帝に代わって天子となったのである。

土徳を持った王であった。(雲の瑞祥が現れたので)雲を官命につけて、雲師と称した。舟車を製作して交通の便ををはかった。風后(という者を)宰相につけ、力牧(という者)を将軍に任じ(て政治を行っ)た。黄河から(天がこの黄帝の徳を嘉して、与えた)図書を受け取った。(また、黄帝は)日月星座の動きを観察して、はじめて天文書を作った。 『十八史略 (現代語訳と解説) 竹内弘行』

① 指南車・・・南を示すしかけをもった車。車のなかに仙人の姿をした像を置き、それが車の位置にかかわらず、常に南を指していたという。 

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