高麗と倭寇Ⅵ

高麗から朝鮮王朝を建てた太祖・李成桂は、政治折衝と軍備の拡充、倭寇の首領に対する降伏勧告、通商許可などを行った。

倭寇自身は奥地に深く入りすぎて自滅したことなどの諸要因がかさなって、倭寇は変質・分解を余儀なくされた。その転身の方向は三つあった。

第一は投化倭人(降伏し、田地を与えられ安住した倭寇)。第二は使送倭人、または興利倭人(通商の許可を受けた倭人)。第三はもとのままの海賊。この第三の場合は 朝鮮半島では行動をやめ、中国大陸方面を活動の舞台とした。

しかし、この三方向は、第一が第二になったり、第三が第二になったりで、区別は現象面の区別にすぎず、内実はそれほど明確に文化したわけではなかった。「倭寇・田建夫」

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

前の記事

高麗と倭寇Ⅴ

次の記事

明と倭寇Ⅰ