明と倭寇Ⅱ
明の太祖・洪武帝の政策の一つである朝貢とは、諸外国に対して政治的友好関係を示す儀礼であり、同時に物資交換の貿易でもあった。 浙江の寧波(ニンボー)、福建の泉州、広東の広州に渡航する船を管理する市舶司をおいた。
明では、外交折衝によって日本を臣属させ朝貢国にしようと、洪武元年(1368年)に詔書を持った使者を派遣させたが、海上で賊に殺害された。
1369年、二回目の使者が九州に上陸したが、大宰府にいた南朝の将軍・懐良親王が、使節団7人のうち5人を斬った。 1370年、三度目の使者が、明で捕えられていた僧を送りかえしてきた。 これに対し懐良親王は倭寇が捕えていた中国人70人余りを送還した。
その後、明で起きた太祖への胡惟庸(こいよう)の陰謀事件や、日本では室町幕府の南朝と北朝の対立などが起き、通交が途絶えることになった。