明と倭寇Ⅵ

 1547年、嘉靖帝は密貿易活動が放置されているとし、朱紈(しゅがん)を浙江巡撫にして海道提督軍務を命じた。 朱紈(しゅがん)は江蘇省出身の清廉剛直な官僚で、1521年進士となり、知事や諸官を歴任し、浙江巡撫(一省の最高長官)になった。

 命を受けた朱汍(しゅがん)は雙嶼(そうしょ)の現地におもむいて巡視に着手し、海上の通交を統制し、二本マスト以上の大船を破却し、峻烈な取り締りを励行した。 朱紈(しゅがん)はとくに郷紳らの勢力家との妥協を一切排除した。

 郷紳とは、官僚が他郷の任地で膨大な財産を作って退職し、それを郷里に持ち帰り、大地主になったり、郷党を組んで政治的、社会的発言権を持つ者たちで、地方官や官憲に賄賂をおくって、大船を造り密貿易もしていた。

 1548年、周到な準備をした朱汍(しゅがん)は雙嶼(そうしょ)を攻撃した。賊徒の死者は数えきれぬほどだったというが、王直やポルトガル船の多くは逃れた。 戦闘が終了したのち、朱汍(しゅがん)はこの地に営所をおき兵を駐屯させようとしたが、海上生活をする者の猛烈な反対によって果たせず、港をふさぐにとどまった。『倭寇・田中建夫』

 

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